
雲南省の少数民族を紹介するテーマパークには諸葛亮(左)に恭順を誓う「南蛮王」孟獲(右)の像があった=4月下旬、中国雲南省昆明市
中国の古典歴史小説「三国志演義」で蜀の天才軍師・諸葛亮孔明(181~234)が知略を尽くして南蛮王・孟獲(生没年不詳)を服従させる「諸葛亮の南征」。225年、南中(現在の雲南省、貴州省と四川省南部)で起きた反乱を蜀軍が平定した史実を基にした物語だ。現代中国は人口の9割以上を占める漢族と55の少数民族の多民族国家。少数民族が多く暮らす現地を訪れると、三国志の時代と今に通じる「少数民族政策」への腐心ぶりが見えた。(中国雲南省・坂本信博)
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三国志演義は歴史書の「三国志」を基にした創作。清の時代の学者は「七分の真実、三分の虚構」と評している。蜀を建国した劉備が223年に病死して間もなく、諸葛亮が南征をしたのは史実だ。諸葛亮は若き日、劉備に「天下三分の計」を説いた時から、「夷い越えつの地」と呼ばれ、異民族が多く暮らしていた南中の攻略を進言していた。
劉備の悲願だった天下統一に向けて北方の魏と対決する前に、南中を制圧して後顧の憂いをなくし、南方から兵士や物資を調達するだけでなく、軍事家としての自身の腕前を蜀の国内に示す目的もあったとされる。物語では天才軍師として描かれる諸葛亮は、実際には軍事より内政に優れた人物だった。
彼の南征軍は四川省成都から雲南省の昆明まで南下して6カ月間で南中を平定している。雲南、貴州両省には、諸葛亮が訪れたとは考えにくい地も含む広い範囲に南征の史跡や名所が点在する。
貴州省安順市の「藤甲部落」もその一つ。「烏戈国」の兀突骨という王が諸葛亮たちの前に立ちはだかり、フジのつるで編んだ頑丈なよろいに身を固めた3万人の藤甲兵が弓矢をはね返して蜀軍を苦しめたと三国志演義に記される地だ。現地では藤甲兵を再現した地元の人々による観光客向けのショーが開かれているが、歴史書の三国志には、烏戈国も藤甲兵も記述は一切なく、後世の創作だ。
大理石の産地として有名な雲南省大理市にも、諸葛亮が孟獲を捕らえては逃がしてやることを7回繰り返した末に、力の差を見せつけて心服させたという「七しち縦しょう七しち擒きん」の石碑がある。
諸葛亮は「用兵の道は敵の心を攻めるのを上策とし、城を攻めるのを下策とする」という戦略で南征を成功させ、「諸葛亮の世が終わるまで二度と反乱は起きなかった」と三国志演義はつづる。が、この地も諸葛亮が来た記録はない。